note記事の再考「震災後に東北を訪問した話」

Diary
note公開当時

5月のはなし。(■Link
 ー2014年6月22日 21:41更新

kenmi
kenmi

 当時、コミュニティFMでパーソナリティをしていた頃。
 会社から「出張費を出すから、2011年の震災後の東北を取材して来ないか?」と言われ、自分の車で東北の地を回ることになりました。
 2013年5月。N-ONEを購入し、出発日に会社に届けてもらい、そのまま出発することになりました。
 丁度室蘭航路のフェリーが無かった時代。高速道路を使い、苫小牧へ。苫小牧からフェリーに乗って青森は八戸へ。

kenmi
kenmi

 2011年3月11日金曜日。14時46分。

 当時は自分の番組の企画で登別の「フィットネスジム」へ。
 運動を終えてシャワーを浴びて着替えていたところでグラグラと揺れ始め、慌ててシャワールームを飛び出しました。
 普通なら数秒揺れて終わりという地震は、2分弱揺れ続け自分の経験の中でも今までに無い揺れだと感じ、ジムを後にし、ラジオ局へ「すぐに戻ります」と連絡して車を走らせたのを覚えています。
 小さなラジオ局ながら災害が発生した場合は緊急放送を24時間続けなければいけないのです。
 ラジオ局への帰路の間、ラジオやスマホのワンセグからは津波が到達したというニュース、そしてあの映像が否が応でも目に入ります。
 番組が始まる17時までの間は丘の上にある海の見える公園から電話で中継を入れました。普段は穏やかな海が、いつもよりも恐怖に見え、海の中にあるテトラポッドがはっきりと見えていたのを覚えています。
 幸い大きな津波は室蘭には来ず、人的被害はなかったのでした。(後にホタテの桁が壊れるなどの被害が確認されたそうです)

kenmi
kenmi

 話は戻り、2013年。
 「自分で実際に現場で体感してみないと、喋り手として思いは伝えられない」そんな思いがあったのを覚えてます。
 早朝に到着した青森から東北道を通り、一路南下。目的地は「宮城県山元町」です。
 山元町は臨時災害放送局「りんごラジオ」が開局しており、沢山のボランティアの皆さんが動き回っていました。支援物資の話とか色々聞いたなかで、ある程度自立をしていかないと、「支援」に頼ってしまって、それが当たり前になってしまうというリアルな話を聞く機会を得ました。
 ある程度は自分たちでやりくりをする必要性があると。そこに「仕事」が生まれたり。かといって、「支援」は必要なわけで、そのバランスが大変難しいんでしょうね。

kenmi
kenmi

 山元町を離れ、隣町の亘理町へ。
 実は、室蘭の隣町の伊達市は、元々「仙台藩亘理伊達家」の方々が移住してきた町。ということで、山元町と亘理町を訪問地に選んだ経緯がありました。
 亘理町には臨時災害放送局「FMあおぞら」(後にコミュニティFMに昇格するも、惜しまれつつ閉局。)がありました。
 訪問した際には、エコノミークラス症候群にならないようにと、ラジオ体操が流れ、実際にスタッフの皆さんが運動する姿も。(もちろんラジオだからその様子は聞いている人には見られないわけで。)
 各町によって災害状況も異なるし、活動状況もバラバラだけどそこに居る人たちの努力や温かさが伝わってくる、そんな感想でした。

kenmi
kenmi

 二つの町を訪ねて思ったのは景色が伊達市に似ているなっていうところ。海沿いに町が広がり、山が背に広がる。
 昔海を渡ってきた伊達家の皆さんも景色に懐かしさを感じ取ったのかな?亘理町は海側に防風林(防砂林?)があって、津波が見えにくかったのではと思いました。ほぼ平野なので、津波は町の中にまで到達したことでしょう。
 東北道が堤防の役割をしてくれたところもあるんでしょうね。多くのいちご農家などは塩害で畑が使えなくなってしまったとも聞きました。

kenmi
kenmi

 亘理町を離れ、石巻を通過し、女川町にたどり着きます。
 女川町と言えば、臨時災害放送局「女川さいがいFM」です。(後にコミュニティFMに昇格、惜しまれつつ閉局。)
 ここは多くのコミュニティFMの開局にも携わっていた方がプロデュースをし、多くの芸能人が訪れ、水曜どうでしょうのディレクター2名が後に訪問し、どうでしょうキャラバンを開くなど、活動は精力的でした。
 女川町は津波の被害がすごく、YouTubeでも一部の映像を見ることができました。(一部裁判などの影響で非公開となった映像もありましたが。)
 何よりも、高台にある病院の1階が全て水没するという恐ろしい話まで。(現地にはその時の津波の高さを表示する柱が残っていました。)
 果たして自分は短時間で高台まで上ることが出来ただろうか?そんな思いがよぎりました。
 山沿いの地域も、川から遡ってきた津波の被害があったとか。地形によって被害が大きくなるというのも勉強になったのです。
 女川では昼食タイムも。訪問したお店は忘れてしまいましたが、大盛りのあんかけごはん?みたいなものを食べたと思いました。
 スタッフの方々には町内の案内を含め、お世話になりました。

kenmi
kenmi

 女川町を離れ、「南三陸町」へと向かいます。
 そこで撮影した写真がnoteのヘッダーに残っていました。

kenmi
kenmi

 この映像を見返したとき、本当に胸が締め付けられました。
 何とか、車が通れるように整理した道路。電気の付いていない信号機。
 そして何より『バックミラー」に映る景色。そう、がれきの山が2年経った今も残っているのです。
 途中で道の駅に寄りました。「奇跡の一本松」が残った場所のそばです。もちろん道の駅も津波の被害に遭い、がらんどうの状況でした。
 そんな中、町の中を走っていると、線路の跡地を通ります。
 周りはがれきが散乱しており、線路もここが踏切だったんだとわかる程度。そこを走っていたとき、一台の車が線路の手前で一時停止をし、走って行きました。
 何も無くなってしまった線路の踏切の前で。
 自分は踏切を通過してしまった。一時停止をせずに。
 地元の人たちには何気ない前と変わらない道路、そこに踏切があるから一時停止をする。当たり前の行動を取ったわけで。
 その瞬間、自分は勝手に生活圏に踏み入れているんだと実感してしまったのです。今でも後悔が残ります。

kenmi
kenmi

 南三陸町を後にし、「陸前高田市」へ。
 ここも、臨時災害放送局「陸前高田災害FM」がありました。(後に惜しまれつつ閉局。)
 どこの町も臨時災害放送局が開局しましたが、それはあくまでも臨時であったこと。そして、行政は防災無線では伝えきれないことを伝える「手段」として放送局を使っていること。だから、復興がある程度落ち着いたら、「閉局」していく運命にあるんです。
 もちろん、コミュニティFMとして運営を続けていくところもありますが、どの町も小さな町で、一放送局を支え続けるスポンサー能力のある企業は少ない。
 だからといって、行政がお金を出し続ける余力も無い。
 そうして、閉局していったのがこの震災で立ち上がった臨時災害放送局たちです。

山元町 2010年当時の人口16000人 2015年当時の人口12000人
亘理町 2010年当時の人口35000人 2015年当時の人口34000人
女川町 2010年当時の人口10000人 2015年当時の人口6000人
陸前高田市 2010年当時の人口23000人 2015年当時の人口20000人

kenmi
kenmi

 こんな状況で災害が発生し、動ける人も少ない、お金も無い中で放送に割ける余力がある町がどれだけあったでしょう?
 自分の住む北海道伊達市は四半世紀に一度は有珠山が噴火する町です。2000年の噴火の際には隣町の虻田町(現洞爺湖町)に「FMレイクトピア」が誕生します。たったの11ヶ月で役割を終え、閉局するわけです。
 2000年当時、18才だった自分はその必要性を求め、専門学校に入りラジオを学びます。2008年に室蘭にコミュニティFMが開局し、2009年から働き始め、2015年に伊達市を中心とした1市3町が共同で運営するコミュニティFMを立ち上げることが出来ました。
 自分の夢は叶い、その道から離れることになるわけですが、それはまた別の機会に。

kenmi
kenmi

 実はnoteにこの記事を公開したとき、コメントがついたのです。
 今はそのコメントを見ることはできませんが、そこには東北の方からのメッセージが込められていました。
 「被災地」とか「災害地」という表現を使われるのが嫌だ。
 表現は違っていたと思いますが、そのような話だったと思います。東北の地に住む人たちからすれば、住んでいた場所がいきなり今まで見てきた、生活してきた景色と一変し、そこに住まざるを得ない状況になった。
 当事者でない自分にはそこに寄り添うことが難しいことだな、表現することが難しいことなんだなと。

kenmi
kenmi

 家族と会話をしているときに、こんな話題をしました。
 地震もこんなに大きなものが来るのは最近になってからじゃ無いか?と。
 それは恐らくこんなにインターネットが普及し、テレビがリアルな映像を映すようになったからだろうなと。
 自分が映像として見たのは「阪神淡路大震災(1995年)」が最初だったと思います。
 その後、「北海道南西沖(奥尻島沖)地震(1993年)」「東日本大震災(2011年)」「胆振東部地震(2018年)」を経験します。
 「台風」も同じだったかも知れません。「洞爺丸事故(1954年)」や「伊勢湾台風(1959年)」。「チリ地震津波(1960年)」は自分の生まれる前で、テレビ放送が始まったのが1953年。東京オリンピックが1964年。その頃から一般世帯にも普及し始めたといいます。
 大きな災害があってもそれを知るすべが無かったのです。新聞では知ることができたでしょうが、テレビは鮮明に映像を映し出しました。
 そして、メカニズムがだんだん解明されてきています。
 ここ最近のニュースで北海道太平洋沖のプレートにひずみが相当たまってきており、17世紀以来の巨大地震の兆候があるという話。何百年前に発生した地震を経験している人は誰も居ないので、そりゃ知らないわけです

kenmi
kenmi

 この記事をまとめる際に、意図せず3月11日が近づいてきていることに気付きました。改めて、あの日を思い出す時だったのでは…。2011年から15年。改めて、あの日のことを心に留めるきっかけになったかなと思います。
 備えあれば憂いなし。地震の際に持ち出すリュックなどは用意してありますか?あの地震があった日、きれいな青空が広がっていました。東北の地はどんよりしていき、雪が降っていたと思います。
 いつ地震が発生するかはわかりません。国が動けないからこそ、自分が動くしかないのかもしれないですね。

タイトルとURLをコピーしました